毒親の記憶と私の生活

毒親のことや日常の出来事や思ったことを書いていきます

思うことはたくさんあるのに

毒親のもとに生まれ育ったことについて、毎日何かしら思うことがあります。

そのことをブログに書きたいと思うのだけど、うつの症状である思考停止状態もあって、自分が思っていることを言葉で表現することが難しく、ブログを中々更新できないという状況になっています。

それと、ブログを書くことは、過去の出来事を思い出す作業であり、過去の出来事を経て今の状況があるということが、私にとって無念であり、悔しくもあり、そうなるとつらくて、自分の中のその気持ちを正視したくなくて、書くことから遠ざかってしまっています。

だったらブログをやめればいいのでは、となると思うのですが、自分の過去や気持ちを吐き出す場所がないと自分が潰れてしまいそうになるので、感じていることを書くことによって心を癒やしています。

また、書くことで気持ちを整理するのにも役立っています。

なので私にとってブログを書く行為は必要なんだと思うわけです。

 

というわけで、久々にブログを書いています。

1月に親族関係調整調停があったのですが、毒母は来ませんでした。

書記官が自宅と携帯に電話をしてもでません。

毒母は「私は何もしていない」と言っていたので、そう思っているなら出頭してそう言えばいいのです。

毒母は自分の正当性を訴えるために来るだろうと思っていましたが、来ないところを見ると、自分が後ろめたいことをしているのを自覚しているということで、一般的に見て自分が責められる立場であることがわかっているんだなと思いました。

相手方欠席のため、調停は不成立となりましたが、調停に提出した文書を毒母に送りつけたところ、その後音沙汰なしになりました。

毒母の行為を公的機関を使って第三者に訴えることは、効果があったようです。

 

 

頭の上にあった雲が去ったような、霧が晴れる思いでしたが、同時に自分の人生は幸せな人生ではなかったな、と思ったり、人生を自分らしく生きることが出来なかったな、と無念さがあらためて湧き上がってきました。

何十年も人格、思考、行動を否定され、洗脳されて生きてきた今の人生は、私が生きたかった人生ではないのです。

子供を一人の人間として尊重出来る親に育てられていたら、納得できる人生を送っていたのにとか、今の時代に育っていれば、もっと早く毒親と決別できたのに、と思ってしまうのです。

今の時代、自分を人として尊重しない親なら捨てていいという考えを悪だと非難されない世の中になってきています。

同じ様な境遇の人同士がsnsでつながったり、他人の行動や思っていることの情報を得ることが心の支えになったり、自分の考えを後押しすることにつながっています。

そう考えると、人生残り少なくなるまで、毒を与え続けるだけの親だと気づけなかった、親を捨てられなかった自分の人生が恨めしく思えるのです。

人生最後の日に、私の人生これでよかったとは思えないでしょう。これでよかったとまではいかなくても、いいことも悪いこともあったけどこんなものかな、ぐらいに思える人生を送りたかった。

無念の人生でしたが、それでも、日常の小さな幸せをかき集めながら、自分を支えて今日も生きています。